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東日本大震災、新潟フリーアナ伊勢みずほ その日、車で実家の仙台に向かう!!

東日本大震災、新潟フリー女子アナ 伊勢みずほ

その日、車で実家の仙台に向かう!!






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伊勢みずほのオフィシャルブログ

2014年3月11日 個人的に思うこと。

伊勢みずほのオフィシャルブログ

はじめに

東日本大震災で犠牲になられた全ての方々の

ご冥福を心からお祈り申し上げます。


少しだけ思い出してみると・・・



あの日私は新潟の自宅にいました。



震源が宮城と知って血の気が引き

テレビの速報から15分後には車を走らせていました。


高速道路は津川で下ろされ

ガソリンスタンドで津波が来ていることを知らされ

引き返すように言われましたが

無我夢中で家族を目指しました。


途中、妊婦さんがヒッチハイクを求めていてお乗せました。

何か喋っただろうか・・・覚えていません。


覚えているのは死ぬのかもしれないという

不思議な覚悟と異常な高揚感。

今思えば情けないことに

パニックになっていたんだと思います。

今までの人生は

この天災を乗り越えるためにあったんだと

変わり果てた故郷を目の当たりにした時、知りました。

やっと家族と会えたときも

死ぬほどほっとしたのに

涙も出ないほど変なテンションでした。

私の実家は

建物の被害だけで、家族の命は無事でした。

それだけで・・・本当にありがたい。

この3年。

宮城と新潟を 行ったり来たりしながらも

私は新潟で暮らしています。

仕事を辞め仙台に帰ることもずっと悩んでいました。

でも新潟で暮らすことを今も選んでいます。

もちろん家族も この選択を応援してくれています。

振り返ると

これでよかったかどうかは自分でもわかりません。


もっとやれることがあっただろう。


もっと捨てられることがあっただろう。


もっと目を見開くことができただろう。

この3年で深めてきた縁に

寄りかかって生きてきたら・・・今日になってた。。。

そんな感じなのかな。。。。

地震や津波がなかったら

一生交わることはなかった縁がたっくさんあります。

宮城にも。 福島にも。 新潟にも。 

何にも代え難い出会いばかりです。

被災地の方々からも

新潟の皆さんからも

どれほど力をいただいたことか。


∞ むげん。


ドキュメンタリー映画 「うたごころ」を観ました。


被災地で暮らすひとりひとりの気持ちを

考えると辛すぎて目を閉じてしまいそうだから

自分の中で「震災はこうだった」という箱に

しまいこみながら生きていることに気がつかされたというか・・・

きちんとその「箱」を開けて向き合って行きたい。

中越地震の被災地 小千谷の方に昨日聞きました。

10年が経ち 市民の8割ほどが「復興したという感覚」を

ようやく持てるようになったみたいだと。。。



まだまだこれから。


これからも つながりに感謝して生きていきたいです。

大勢の方に力を貸していただいた3年でした。

あらためて 心から感謝申し上げます。


本当に本当にどうもありがとうございます。


出来ることを続けます!


YouTubeで「【日本赤十字社】しんちゃんのランドセル」を見ませんか
https://www.youtube.com/watch?v=0RP2JlbYRvw&feature=youtube_gdata_player


ツアーもやろう! HOPE Tシャツも続けよう!


一人じゃできないけど

みんなと一緒なら絶対に出来る!!


なんともまとまらないけれど

そんなことを考える大切な一日でした。

【東日本大震災】伊勢みずほ
http://search.ameba.jp/search.html?q=%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD&aid=isemizufo

伊勢みずほのオフィシャルブログ
http://s.ameblo.jp/isemizufo/entry-11792839876.html


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新潟フリーアナウンサー、伊勢みずほさんのブログからの東日本大震災支援

被災地応援バスツアー
http://s.ameblo.jp/isemizufo/entry-11321720120.html 8月も!9月も!開催決定です

新潟恩返し隊&ごきげん新潟応援団 共催

被災地応援バスツアー

これまでのボラバスツアーと違うのは 「観光」をすることでの応援ツアーです。
8月25日(土)からの一泊二日は 新潟県内の社会福祉協議会さんが 集中的に復旧活動に専念された 岩手県陸前高市を訪れ、 宮城県気仙沼市・南三陸町と南下する 2日間! 16000円です。
新潟で活躍の伊勢みずほさんの実家は仙台。伊勢さんは、3・11大震災の日、危険を顧みず、仙台に向かいました。伊勢みずほさんの東日本大震災支援の活動は、ここから始まりました。

神崎のナナメ読み様より
http://kanzaki.sub.jp/archives/002497.html

フリーアナウンサー伊勢みずほさん

●プロフィール 1977年生まれ。 宮城県仙台市出身。 高校時代から宮城県内でラジオ・パーソナリティーやフリーアナウンサーとして活躍。 2002年4月~2010年3月まで新潟放送アナウンサーとして勤務。 現在はフリーアナウンサーとして多方面で活躍。 町おこし、動物愛護など積極的に携わっている。 オフィシャルブログ
http://ameblo.jp/isemizufo/

【東日本大震災を経験して】
http://kanzaki.sub.jp/archives/002497.html

さて、今日のテーマは「まちかど行ってみずほ~今こそふるさとに誇りを~」という事でつけさせていただきま した。 私自身、今年ほど、このふるさとというものを意識したことがありませんでした。 皆様もきっと、東日本大震災の時には、それぞれの立場で、ご自分の事とか、家族の事とか、お仕事の事、住ん でする場所の事、なにかしら考えたんじゃないかなあと思います。

私の実家、仙台にあるのですけれども、少しだけ今日、地震で経験してきた事をお話しさせていただこうと思い ます。

皆さんは3月11日、あの時間、何をしていらっしゃいましたでしょうかね。 私は休みだったので、新潟市の自分の家にいたんです。 物凄く揺れたじゃないですか。 長い時間、揺れましたよね。 でも私はあの時、ぱっと「あっ、また中越なんじゃないかな」と思ったんです。 あんなに揺れたんで、もっと近いと思ったんですね。 嫌だなあと思ってテレビをつけたら、宮城県であると。 もう200キロ以上離れている宮城で揺れて、新潟であんなに揺れる。 ただ事じゃないなあとすぐに思いまして。 今思えば、もう少し思慮深く状況把握してから行けば良かったと思うのですが、地震が発生して20分後ぐらい には、私もクルマに飛び乗って、仙台へ向かったんですね。 とにかく家族に会わなければいけないと思ったんです。

飛び出した迄は良かったんですが、高速道路に乗って、津川インターですぐにおろされました。 その先は通れませんでした。 津川でおりたところで、ガソリンスタンドがあったので、そこに寄って、満タンにして。 ガソリンスタンドの人に「ここから仙台までどう行ったらいいですかね。道を教えてください」と聞いたんで す。 でも、ガソリンスタンドの人は、「いや、テレビを観ていたら、津波が来ていて大変なことになっている」と。 私、津波のことも知らなかったんです、その時まで。 「大変なことになっているから、絶対に行けない、引き返しなさい」と言われました。 でも、私の中では、帰るという選択肢は無かったんですね。 なんとしてでも仙台に行かなければいけない。 「分かりました。なんとか行ってみます」と、ナビゲーションが古かったんですけれども、ナビにそこから高速 以外で行ける道を入れたんです。 そうしたらナビが古かったせいで、バカだったんですね。 猪苗代のスキー場を通るような、ナビで見ると、クネクネという山道がたまに出るじゃないですか。 あの道を通らせられたんですね。 でも、そこを信じて行くしかなかったので、行ったんです。 猛吹雪で、スキー場の近くを通って、そこは真っ暗でした。 あとは、福島の町の中に着いてようやく、クルマがいっぱい渋滞していたので、そのテールランプで明るかった んですが、どこへ行っても橋が落ちている、土地が割れているで迂回迂回。 ちょっとずつ、ちょっとずつ進む大渋滞で、住宅街みたいなところを通されて行ったんですね。

どうにか宮城県に入りまして、そこからは出来るだけ情報収集しようと思いまして、TBCラジオ、仙台の地元の ラジオを聴きながら行きました。 そのラジオから聴こえてくるのが、荒浜の海岸に、200から300の遺体がうち上がっている模様でしたとか、気 仙沼では火災が起こっていますとか、そんなニュースが淡々と流れていたんですね。

その時、私は状況が全く分かっていなかったので、放送局もパニックになっていて、誤報を流しているんだ、と んでもない誤報を流しているなと思いながら行ったんです。 ちょうど荒浜の辺りを通ったときに、道が真っ赤だったんです。 緊急車両の赤色灯で真っ赤で、サイレンがずっと鳴っていたんですね。 それを見て、あっ、もしかしたら本当なのかもしれない、大変なことになっているんだなと思いました。

あの情報を伝えなければいけなかったアナウンサーの気持ちを思うと、本当に辛かっただろうなあと思います。 感情を押し殺して、淡々と伝えていたんでしょうね。 私もずっと動揺したまま、泣きたくも無いのに涙がどんどん流れてクルマを運転をしていて。 どうにか、それでも夜中の12時に実家に着くことが出来ました。

マンションなんですけれども、マンションの一階で毛布にくるまって、他の住人の方と避難している家族と会う ことが出来ました。 その日は、クルマの中でエンジンをつけたり切ったりして、寒かったので、それで過ごしまして。 次の日、部屋の片付けをして、やっぱり夜は怖いからクルマで眠って。 次の日からは、近くの避難所の小学校でお世話になりました。

実家はですね、仙台市の青葉区というところにありまして。 みなさんご存知でしょうかね、仙台駅とか、国分町・・・飲み屋街があるのですが、どちらかというと、あの辺 りにあるマンションです。 ただ、12階だったということで、非常に揺れたんですね。 家の中のものは、全部壊れました。 何一つ残っていませんでした。 こんなにも酷いもんなのかと思ったのが、洗濯機がズボッと飛んで、壁に突き刺さっている状態だったんです ね。 怖かっただろうなあと思います。

でも今は本当におかげさまで、新潟の皆さんにもたくさんたくさん助けていただいて、家族は日常生活を取り戻 しています。 本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

その後ですね、地震の後、二週間後ぐらいに新潟に戻ってきたんですが。 その後、新潟の飲食店の方々と、チームを組んでいまして。 ラーメン屋さん、お菓子屋さん、パン屋さん、おすし屋さんなど、一緒にですね、南三陸町の歌津地区というと ころへ、何度か炊き出しに行きました。 歌津というのは、皆さん聞いたことがありますでしょうかね。 とっても綺麗な風光明媚な観光地でした。

みなさんもテレビで観ていたとおり、全部を流された所です。 体育館で5か月ぐらい皆さん生活を送っていたんですけれども、本当に歌津に関して言えば、避難所となってい た中学校の体育館が、高台にあったんですけれど、そこから街が見下ろせる場所に避難所があったんですね。 だから5か月間、何も無くなったふるさとを見下ろしながら、避難所生活で本当に辛かったろうなあと思いま す。 名十年もその場所に暮らしていた、思い出がいっぱい詰まった家が、何もなくなってしまってですね。 私がお話しをうかがった、家が流されたとおっしゃっていたお婆ちゃんと、お嫁さんと、子供たちがいらっ しゃったんですが、家族の命は無事だったそうです。 本当に喜んでいたんですが。 ただ、仮設住宅が狭いので、お婆ちゃんだけが別の棟のおうちに住んでいるんですよね。 田舎ですと、大家族で住んでいる方が多いので、今は住む家がなくなって、家族形態といいますか、家族一緒に 過ごすことが出来なくなっている人達が多いです。 一日でも早く、それぞれの自分達の家族の住まい、家族一緒の空間を早く取り戻せたらなあと思っています。

家族もそうなんですけれども、地区ごとにまとまって仮設に入れたら良かったんですけれども、宮城に関して言 えば、みんなくじ引きで仮設住宅が決まったので、みんなバラバラのところに移ってしまっているんですね。 地域のコミュニティーが完全になくなっているのが、ちょっと心配されているところです。 行ってみて分かるのですが、報道されていないところも、まだまだ細かくありまして。 この期に及んで、8か月経っても手付かずの所もまだあります。

炊き出しに行ったときに、60代ぐらいの大工さん、おじちゃんと出会って、話しを聞いたんですが。 あまりにも街が酷い状況だったので、せめてライフラインが整うまでは、他のところで暮らしたらいかがですか と私、聞いたんです。 そしたら、その大工さんは、「それは無い」と即答されました。 ここにいれば、まだ出来ることがあると。 「復旧運行のために動くことが出来るし、俺たちがいなくなったら、ここは誰が守るんだ」とおっしゃったんで すね。

もう何にもなくなってしまったふるさと。 それでもその土地に根付いて、ふるさとを大切にしていくという思いが、日本人の中にある本能なのか、また は、ふるさとの持つ力なのかなあと考えさせられました。 きっと今頃は、大工さんも、地元の人達の家とか、新しいおうちを建てるために汗を流していらっしゃるんでは ないかなあと思います。

炊き出しに行って、もう一つ感じたことがありまして。 それが、本当に新潟の食、美味しいものが持っている力って、凄いんだなあって感じました。

ラーメンとかお寿司とか、ぽっぽ焼きとか、ワタアメ、カキ氷なんかも向こうで振舞ってきたんですけれども。 被災地の方々、大喜びでした。 新潟の炊き出しは、一番うまいと言ってくださいました。 「だから、また来てね。本気でみんな新潟の炊き出しを楽しみにしているんだよ」と言ってくださったんです ね。

そこで、食での支援ということで、私たちは新たな企画を考えました。 それは、「新潟に南三陸食堂を作ろう」という事で、今、考えています。 随分壮大ですね。 本当に叶えばいいなあと思っているんですが。 これは、新潟の食材と、南三陸のものをコラボした美味しいものを新潟の方に提供することによって、向こうの ものを買うことが出来るし、そして新潟の方に美味しく楽しんでいただきながら、忘れずに長い支援が出来るん じゃないかなあと考えたんです。

あとはもう一つ、向こうでですね、被災地の方で食堂をはじめたいと言っている方がいるので、そちらの方の支 援も出来たらいいなあと思っております。



【チャリティーTシャツ】

それにはどうしても資金が必要ということで、私たちはTシャツを作ったんです。 ちょっとここで皆さんにご協力をいただきたいなあと思って、今日、持ってきているんですけれども。 こちらです。

凄い可愛いんです。 見てください。 これ、出来立てのホヤホヤのTシャツなんですけれども。 今日は会場にも、何人の方が着てくださっていますね。ありがとうございます。

真ん中に虹がありまして、太平洋と日本海をつないでいる希望の虹。 真ん中に大きく「HOPE」・・・希望ですね。 そして、がっちりと手を組んで握手をして、一緒に頑張っていこうという「TOGETHER」が書かれています。 そして、背中バックプリントにも凝っていまして。 ちょっと小さくて見にくいんですけれども、後でゆっくり見てください。 日本地図が書かれていて、新潟の所に印が付いています。 「HOPE FROM NIIGATA」と書かれています。 新潟から希望をというデザインがあるんですね。 これは、デザイナーの方も、私たちの気持ちを汲んでくださいまして、デザイン料は一切とらずに、無料で考え てくださいました。

こちら、3150円で販売させていただいて、原価を取り除いた全てを被災地のために使わさせていただこうと 思っております。 今日は、ちょっだけ持ってきているので、もしご協力いただけるのならば、よろしくお願いします。

この南三陸町というのは、今は見る影もありません。 沿岸部、酷い状況です。 まるごと、街ごと流されて、何もありません。 人もたくさん、たくさんいなくなってしまいました。 そんな、何もなくなってしまったふるさと宮城の沿岸部に立って感じたことは、帰ったときに、慣れ親しんだふ るさとが、当たり前にそこにある事が、どれほどありがたいことなのか、というのを強く感じました。

その慣れ親しんだふるさとというのは、ひとつは人との繋がり。 もう一つは、街の風景・景色のありがたさでした。 まずは人のつながりと言う点から、本題に入っていこうと思います。
Posted by kanzaki at 2011年11月13日 14:11

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[ 2014年03月11日 18:56 ] カテゴリ:伊勢みずほ | TB(0) | CM(0)
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